Claudio Monteverdi
クラウディオ・モンテヴェルディ


C.Monteverdi img  1567年5月15日クレモナに生まれ、1643年にヴェネツィアで没したイタリアの作曲家。モンテヴェルディの生涯は3つの時期に分けられる。第1はクレモナ時代で、主として学習の時代である。医師の息子として生まれ生地で成長した。彼の学歴について詳しいことは分からないが、おそらく1580−90年の10年間インジェニエリから音楽を学んだのであろう。15,6歳のころから作品を次々に発表している。作曲は多分野にわたっているが、マドリガルが多い。1589年ごろ職を得るためにミラノに行ったが、希望を実現できずに故郷へ帰った。
 第2はマントヴァ時代である。1590年からマントヴァ公の歌手、ヴィオール奏者となった。92年にはマントヴァ時代の最初の成果であるマドリガル集第3巻を出版した。次いで1603年には第4集を、05年には第5集を出した。1599年、彼は主君と共にネーデルランドに旅し、ブリュッセルに1ヶ月滞在し、フランス楽派の音楽に親しんだ。1600年ごろ楽長の地位に進み、07年にはオペラ「オルフェウス」が、08年には「アリアドネ」が上演された。07年末には、妻のクラウディアが2人の息子を残して死に、モンテヴェルディ自身も持病の頭痛に悩まされるようになった。作曲家として輝かしい成功を収めたにもかかわらず、楽長として給料は滞りがちで、財政的には苦しかった。彼はミサ1曲と協奏様式の「聖母の夕べの祈り」の2曲を携えて1610年ローマに赴く。これらの作品を出版し、長男フランチェスコの就職を得たいという旅行の目的は達せられず、失意のうちにマントヴァへ帰った。12年マントヴァ公ヴィンチェンツォ一世は死に、モンテヴェルディはマントヴァを去った。
 次はヴェネツィア時代で、1613年モンテヴェルディは大聖堂サン・マルコの楽長に任ぜられた。ここで彼は水準の低下していたサン・マルコの演奏力を再び高いものにした。14年にはマントヴァ時代の終わりに作曲された作品を集め、マドリガル集第6巻を出した。サン・マルコの楽長として古典的なポリフォニー様式の作品を書く傍ら、マントヴァ、ボローニャ、パルマの宮廷のためにもオペラ、バレー・オペラ、インテルメッツォも書いた。この頃に書かれた作品は残念ながらほとんどが失われてしまい、今日伝わっているのは「ティルシとクローリ」、「タンクレアウスとクロリンダの争い」の2つだけである。
 モンテヴェルディの晩年、70歳の頃、1637年にはヴェネツィアで世界最初の公衆オペラ劇場が開かれ、従来宮廷だけで行われていたオペラが一般市民に見られるようになった。続いて多数のオペラ劇場が開かれ、名声の高かったモンテヴェルディには新しい作品が要求された。42年75歳のときには大作「ポッペアの戴冠」が上演され、前述の「オルフェウス」などと共に今日その楽譜が完全に残っている彼のオペラである。 43年に職から退き、同年11月29日ヴェネツィアで永眠した。
 16世紀末にフィレンツェで起こったオペラはヴェネツィアに移った。この派の最大の作曲家がモンテヴェルディである。彼は一方で数多くのマドリガルや若干のミサにも見られるようにポリフォニーの大家であった。しかも彼は本質的に劇音楽の作家であったことは、そのマドリガルの発展の中にさえ見られる。彼の第3巻までのマドリガルは伝統的な5声の様式によっている。しかしその中にも鋭い和製感覚や、ソロの強調や劇的な気分など、将来の彼の作風を暗示する諸要素が現れている。この傾向は第4巻、第5巻では一層顕著になった。これらに見られる古典的対位法への反則は、アルトゥージによって非難されたが、モンテヴェルディとその弟子チェザーレはマドリガル集第5巻の序文その他で、歌詞の情緒の劇的な表出を重んずる「第2の作法 Seconda pratica」を擁護した。
 しかしこの方向は必然的にモテト風の複音楽的様式を後退させた。第5巻のマドリガル集は最上声に優位を置いたソロのマドリガルで、第6巻以降の作はオペラ・オラトリオなどの作が含まれ、もはや本来のマドリガルの姿は失われている。
 他方、彼のオペラは根本的にはペーリの「エウリュディケ」(最古のオペラ)などの様式を継承するところから出発した。ペーリの作品が1600年上演され、モンテヴェルディの最初のオペラとされる「オルフェウス」がそのわずか7年後の上演であることを思えば当然であろう。ギリシアの牧歌劇の世界を主題とすること、プロローグや合唱のリフレインのついた全体の構成がフィレンツェのオペラにならったものであり、モノディが支配的で、台詞を重んじた音楽的朗唱様式を用いていることなどが、ペーリの作を基にしていることを示し、メロディや転調の方法なども似ている。
 とはいえ、モンテヴェルディの「オルフェウス」はペーリの「エウリュディケ」に比べれば格段の進歩を示している。リズム、旋律進行、調性の活用などにおいてモンテヴェルディは著しく自由さを獲得し、台詞と音楽との関連についても先人の及ばざる伸縮自在な関係を獲得した。音楽そのものの劇的表現力を高め、有節アリア、舞曲的歌曲、二重唱、マドリガル、器楽曲などをオペラに豊かに取り入れた。このことは当時のマルコ・ダグヮリアーのオペラなどにも見られるが、これらを有機的に組み入れ、その特性的表現力を劇内容に相応させ、整然たる構成と配置によって劇と音楽との統一に成功した点において、この作品は比類なく偉大であった。
 モンテヴェルディは要するに、たしかに完成された楽劇の1つのあり方を示したもので、オペラ史上の最も偉大な作曲家の1人に属する。また一方、「オルフェウス」を出すまでに5つのマドリガル歌本を世に出しており、歌詞を音楽に表現する技法において、彼独特の様式に習熟していたことも忘れてはならない。かの「第2の作法」に見られる卓越した心構えと技法なくしては「オルフェウス」の傑作は生まれ出なかったのである。



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